昭和40年07月18日 朝の御理解
「心に信心の帯をせよ」信心の帯をする。確かに帯をしたような、帯をしとる様にあるけれども、いつの間にか着崩れてしまっておる。そういう帯ではつまらん。これは例えば女の方達が着物をきらずに、下からずっと着られるときには、やっぱりあの小さい紐で、ズーっと締めて、締めていかじゃですね、一枚一枚こう下帯というですか、ね、下着の上から伊達巻のようなものをざざっと、そしてまた一番上からその時に本当の例えば。帯をなさる。それがでけてないのが結局着崩れする。
ことになってしまうのじゃないだろうかと私は思うんです。ね、「信心の帯をする。」信心の帯ということには、どういうようなことを言うのだろうかと。昨夜あの御祈念が終わったあとに、久保山先生から、「これはあのう耳納から送ってまいりました」親先生に上げてくれということでございますからと言うてから、写真を天皇陛下と皇后陛下を御中心にして、あの双葉寿司の方達が、皆こう写ってるわけです写真に。
ま、時代が変われば変わるもんだと、こう。ね、あっちのこうオヤッさんなんか、なんかこう変な帽子かぶって腕まくりしたまま(笑い)、天皇陛下とこうして真ん中で写っております。あとからご覧ください。お寿司屋さんでも大したもんで、ピンからキリまであると思うですよね。天皇陛下の寿司を握って、上がって頂くと。しかもそこの店員、女中さん達までが、一緒にこうやっておかげを頂いておる。
勿論、暖簾も古いでしょうが、ね。まあ年毎にそういう、天皇陛下が催されるところのなにか遊宴会みたいなことで、毎年毎年こうしてあのう双葉寿司が、寿司は双葉という風にこう指定されてあられるのに違いない。ね、そういうような例えば年々そういう風に開かれるそういう遊宴会のようなときにですたい、寿司は双葉というふうに定められておったのが一遍でも失敗があったり、しておったらこんな続かないと。
ですからそのためには、話は聞かないから分かりませんけれども、さあ何時いつは遊宴会で、また陛下の前で寿司を握らんならんと言う様な事になって来たらです、もう皆んなが、そのことに取り組んでいる。もうどこにもお粗末御無礼がないように、一生懸命の思いが払われるだろうと私は思うのです。いついつ遊宴会やるから来てくださいと電話の架かって、はっとこう行くというようなものではなくてです。
そのことのために、十分と注意が払われるだろう。やはりそのお粗末御無礼がないように、相手は皇族方々ばかりである。しかも天皇、皇后両陛下がご出席になる。もう形こそ寿司屋さんの許しで割烹着を着てから、普通のようにしておりますけれども、その内容というものは、もうしっかりと信心の帯が(笑い)信心の帯じゃない、商売の帯が、ね。なされておることであろうと、こう思うです。ね、
それがいよいよ双葉寿司の、揺るがない心行というものが出けて来るのじゃないかと私は思うですねえ。皆さん、信心の帯をせよと。ね、確かに見事に帯を仕上げとるようであるけれども、何かちょっとあったらもう着崩れとる。そういうだらしのない様な事では、次に頼み手はありゃしません。ね、それが下からですチャット一枚一枚下からです。やはり、細紐で結んだり、ね。
その上を伊達巻でまいたり、着崩れしないようにちゃんともう、下ごしらえというのが出来ておる。その上にいわば、大きな帯をして、初めて揺るがないところの、着崩れしないところの帯が出来る。いついつの記念祭の頃には、もう本当にあのう、総代さん方はもう大変な、御用ぶりだった。ところが次の記念祭には、それぞれが変わっちゃった。お上品じゃなかった。
だから、御用が出けじゃった。自分がお世話人だから、総代だから、ね、というようなことで、御用が出来る、出来ないといったようなことでは、つまらんということ。こと、それが神様のことに限ったら、ほなら、ことこれは、どこの、とりまきにはまいりますめいけど、こと、宮城(きゅうじょう)、こと天皇陛下から招かれてこういうような、光栄に浴するという前にです。
随分と、そのことに取り組んでの、心を使こうてあるであろうにです、ね、何時の場合だってそのことに取り組んでおって初めて、毎年、毎年、こうした天皇陛下が催されるところの、例えば、そうした遊宴会にでも、必ず双葉が指定されると。私は昨日、善導寺の御月次祭でございましたから、あとは、総代会でございました。今度あちらで改造が思い立たれてあるんです。記念祭の事業として。
一番初めの大工さんがいよいよもう、今日決まるという日になって、ちゅうぶで倒れなさった。御信者さんである。だから、今度は別にここを押しました。田中組というのがありますよね。田中組にそれを依頼した。この前の月次祭の後の総代会のときに、田中さんに頼もうということになってから、んなら、万端見積もりをお願いするということであった。そこで、17日の月次祭の時にほなら、決定しようと。
見積もりを出してくれ、持って来てくれじゃった。ところがお祭りが済んで幾ら待ってもこん。電話をかけたところが忘れとったらしいですね。どこにかもう弁当もちで佐賀のほうへ行っとるということであった。その前にですそれぞれ一人帰り、二人帰りして帰ってしまった。残っているのは私と長谷さんと二人だけだった。可笑しなことだなあと私は思うんですねえ。まじで、これば出さんならんから。
今日はもうそれで決るとだった(笑いながら)。結局今日決らなかったんですけれどもですね、もう出しごつのこのときはそこまでの、九分九厘のとこの話し合いのとこには出てくるんですけれども、いよいよ決らんならどれだけで、今度は記念祭が大変だから。記念祭のことは、信者一同に呼び掛けるけれども、事業のことだけは総代だけで持とうということになっておった。大体の話が。
言うときはよかということになったら、まあ、いうならば、逃げ散らしてしもちから、だあれもおらやった。それで親先生もちょっと気分が悪うなさったごたる。まああんた何十年間ちいうて、このままでやって来たっじゃから。しゃっち今度ん記念祭にそげんわざわざ私がいわば、ようしてもろうたり、部屋を作ったりしてもらうこつはいらんばの。いや、長谷さんの言いよんなさいます。
まあそれもそうですたいちいうてから、合い槌を打ちよんなさいます。私も横から申し上げました。「先生そりばってん、そりゃそりこりゃこり」と。記念祭はお祭りのひと月前に本気んなら皆が出来ますよち私が言うた。だからそれまではです、ね、まだ十分に時間も日にちもあるんですから。それまではこの事業させて頂いたっちゃできますねと、私は言うた。ね、記念祭は記念祭の前のひと月でも本気になれば出来るち。
もうお祭りが大事だから。もう事業の場合どうでもええち。という風に親先生は知っておられましたけれども、私はそう申し上げた。私は皆さんが知っておられる、善導寺と私の関係のことをずっと、40年の記念祭から45年の記念祭、そして50年の記念祭、今度は55年、55年の記念祭。60年の記念祭、ね。今度は。例えばその間に私が、5年間も空白時代があったんですけれども。
私はもう記念祭のときだけは、もう誰が何と言うても、どんなときでも、私は、お賽銭箱ひっくり返してからお供えしておることです。例えばそれは、私共なんかは、問題にされない時代でも。勿論40年祭は、私が帰ってすぐの、明くる年でした。45年祭は、もうここが、随分助かってから総代さん、あの、高滝さんどんがおかげ頂いておる時分でしたから、高滝さん、高芝さんやらの総代の時分だったから。
全部私が十何人か引き連れてから、お賽銭箱ひっくり返してそのままお供え持って、私は、記念祭にいわば馳せ参じた。ね、それが大洪水で畳が腐ってしまったぎなという話を、させて頂いてうちがわには、何にも出けてなかったけれども、私は熊谷先生をしてから直ぐ貯めたつと、御初穂の全部を持って善導寺に私は走って回った。御大祭いわば仕上げの特別のとき。さあ、あちらのご長男の結婚式。
というときには、もうほんとに私は大体、あちらのその御用は私がとり行わせて頂いた。もう勝手に使うもう砂糖、酒やら砂糖やらいうなら私は、沢山お供え頂いておったから、もう粗糖どん二俵私は持っていった。ね、そういうわけで私は総代でなからなければ、なんでもなかった。もうむしろ私はあってもなかっても良いように言われよった時代であった。ほんとに言ったら。
本当にまあ言うならば、恩知らずというような、とにかく親にその弓を引くと言う様な、言葉までどうもいわれた。いや造営どころじゃなかった。まあ親子の場合言葉の綾とまで言われよった時代だった。まあ人生私が丁度、総代の御用をさせて頂いておるから、「ね」、勿論、突然のことでございますけどです、誰が逃げ散らけたっちゃ、私が一人ででもおかげ頂こうとこうと、私は思っている。ね、
自分がこんだは、こげん役はしとらんから、ね、いついつの記念祭の時には、おかげ頂いたばってん、次の記念祭の時には自分はもう役不足やったきんで、もう平じゃから平がた、しときゃよかといったような事ではです、私は信心の帯は出来はせんと。言っておる人達は次はもう緩めとる。それが私は積もり積もって、あれだけは間違いがないと。これは私は恐らく親先生でもそこだけは、信じて下さっていると思うんですたい。
まあこの人がこと神様、親教会の何かというときには、この人は絶対御用は頂くもんだと、親先生は思うておってくださるだろうと思うんです。皆さんもご承知でありますように、親奥様が亡くなられたときなんかはもう、もう本当に親戚の方たちでもされないことを私は、私だけではありませんが、椛目のご信者一同でさせて頂いたでしょうが。あれは、私が先頭に立って言うから皆さんもでけたんです。
こと神様こと御広前というときにです。いわば下帯ばきちっとでけておるからその時々に私は、信心の帯をしっかりと締め上げられていくことが出来る。そこにです例えばほんなら先生の信用という言葉で言ったようにしましても、神様のご信用だけは頂いて行くことが出来ると私は思うのです。ね、「信心の帯をせよ」と。帯はしておるごたるけれども、着崩れとると。ね、一年一年に、年月年月に。
もう一生懸命やっとるけれども何月何月はもう、ご無礼済みだったといっておる事がない。ね。この前の第二回の委員会の時に、部長さん方が一人ひとりそれこそ、本当にもう他にはなぁんもいう事はいらんと、この総代さん達には皆が付いていけれると。と例えばいうような発言をなさった。一人一人が。嘘ではないと私は思う。杉さんに要するに、ね。こん時この際よくも御造営の列車に乗り遅れてはならんですばいち。
秋山さんがいわれた、ね、どういう感情が会い、どういうようなことがあってもです。自分のくみやすし、例えばあちらは庶務課ですもんね庶務課、庶務のほうの部長をしておられるがです、私は勿論庶務課じゃからこういう事は知らんと言った様な事では、今度の御造営は出来んと。皆が私共がです立ち上がって、どう言う様な御用にでも、見せんだけの領収書を押収しなければです、ね、
あれはまああれがしよるけんで、私は知らんと言った様な事が無いようにしなきゃならんと。私自身それがそのような雰囲気ガがあったけれども、この会を境にです、そこんとこを改めてから、おかげを頂きたいと言うてから、今もお話されたでしょうが。それは、相談しとろが、しとるまいが、役を承っておるが、承っておるまいが。本気での信心がなされねばならない。
本気で信心なさして頂くという事は、本気での御用が出来なきゃならんという事。しかもそれが、何時のときはできたけれども、何時のときはでけとらんといった、出けんといったようなものではなくてです。何時の場合でもです。もう、あれで、あれがおってくれるから。と、あれで無きゃならんというような神様の信任を受けるために、信心の帯がしっかりと出けておかにゃならんと。
何時の場合でも。ね、例えていうなら私が一番において、もうあげんとは、うちの、どうでもないがこうでもないと、言われるようなときでも、さあ、いよいよ記念祭という事になる時には、私がやっぱり親教会に、馳せ参じておる、とまあこれは、手本のように言うけれどもです。私は、そういうようなものが、信心の帯がしっかりとされておるからではなかろうかと、こう思う。
下帯がしっかり出来ておるから、いわゆる、どういう事を言われても、どういう事があっても、着崩れしていないのじゃなかろうかとこう思う。ね、お互い一つ、信心の帯している様であっても、着崩れるごとあるならばです、先ずは、あなた方の信心の人へのしようがまだ出けとらんというふうにです、悟らせて頂いて、しっかり信心の帯をしなければいけないと思うですね。
(終わり)